2016年末に仕事辞めてニートしていますけども、もしかしてみんなもそうですか?
やっほーです。
しばらくライターの仕事をしていたのですがいろいろあって(持ち前の自己顕示欲が暴走し編集長と揉めに揉めて)退職しました。ゆとり教育の洗礼は今なお絶好調で私に悪影響をもたらしています。ありがとうね。
「就活は明日から!」を合言葉に夜な夜な飲みに出かける以外の時間、マジで何もしていないのでブログ書き始めてみました。
これほど社会生活から距離を置いていると語らうネタもないので、さっそくはてなブログが提案する「今週のお題」なるものに頼ってみることにしますわ。
今週のお題「冬の寒さ対策」
まず言いたいのは、1月も下旬にして正直このお題クソおそいような気がするんだけど、このネタ冬が始まってから一度も出さなかったんかなってこと。
日本の寒さが絶頂に達するタイミングで満を持してこのお題を提案するって、お前らはてなブログさんは本当に賢いやつなのかよってこと。
私なんかに言わせたら10月上旬の肌寒くなってきた頃、突然の冬の気配にビビって出しちゃいたいネタだから。そして1月にはもう冬ネタ切らして「春のセンチメンタルへの耐え方」を提案するよ。決して焦らすことなどないんだから。
これが思いつきで仕事辞める人間の特性であり、成功しているはてなブログさんと成功していないおしりさんの大きなちがい、
つまりはライターの頃メディア方針について編集長と揉めてまくってたあの日々、本当に間違っていたのは誰だったのかってことの答えだからね。絶対に私だよね。
テーマについて小うるさくいった割に肝心の「寒さ対策」についてはこれっぽっちの知識もないので他の人のブログのぞかせてもらったけど、意外にも「生姜」とか「ホッカイロ」とか「新聞紙」とか、いにしえから使い古されているテクについて語ってた。いや、賢いはてなブログさんから一変してこいつらは一体どういうつもりなんだろうね。
もしかしてだけど、60年間土の中で眠っていた人々なのかもしれないよね。至極当然のことを渾身のネタとして読み手にお届けしているわけだから。「ホッカイロ」はまじでないだろ。絶対に出直してこいよ。
というわけで参考にならないクソ記事ばっか読まされたせいでなんのイメージもわかないまま文句ばっかり言う羽目になりました。
ここまでネタとマッチしてないと私こそが出直すべきなんだけど、ただね、
私ぐらいのプロニートになってくると別の「寒さ」についての対策法についてはちょっと語れるんだよね。
わたくし悲しいことに、大変長らく付き合った男性と昨年別れる機会がありまして、11月末から心のどこかにぽっかり風穴が空いておりましてね。そこに一生北風が吹いてるわけよ。
私がここ数ヶ月感じていたのはそういった面での「心の寒さ」。私は24歳になるまで知らなかったんだけど、おそらく多くの人が経験していることだと思うよ。
まず彼と別れた当時は仕事も忙しかったし、転職に対する意気込みも半端じゃなかったから、自分の心の寂しさに全然気付けていなかったんだけど
ニートになってみると考えることなんて「今日誰と飲みに行こう」と「私結婚できるんかな」ばっかりで。前向きな自分と後ろ向きな自分が同居していることによって一歩もその場から動けていないわけよ。
ふとした瞬間寂しくなって、私の青春時代に縁もゆかりもないストレイテナー聞いて涙したりもするわけよ。こいつら誰だろうって呟きながら、涙は止まらないのよ。
そこで気づいたんだけど、この心の寒さの原因はずばり「暇」かもしれないよね。ていうか、絶対にそうだよね。仕事しているうちは自分の事なんか考えなかったし、熱意のおかげで心も体もまったく寒くなかったもん。
ということで、私のような心の寒さを持つ人にはぜひ、ぜひ、
もっと仕事を頑張ってほしい。
それだけなんだよね。
ニートからは以上です。
【緊急報告】えーんえーん、こんないい加減なブログは今日をもって閉鎖します。
あのころの"不安"を呼び起こす映画『トゥルーマンショー』
人生の行き先がわからなかったあの頃
幼い頃、あまり良く寝られない子でした。
夜になると必ず思うことは
自分がなぜ、そしてなんのためにこの家族のもと生まれてきたのか。自分の気持ちはこんなに大事で、考えていることは手に取るようにわかるのに、なぜ周りの人の気持ちは不透明で、たまに自分と違う方を向いているのか、ということ。
もしかすると、この世の中で人間として生きているのは自分だけで、家族も含め、私が触れてきたすべての人間は私の世界を作り上げるためのサポーター、もしくはロボットなのでは…
なんて気になり、夜中に何度も起きては母の枕元で「私、なんで生きてるんすかね?」
とそっと囁く悲しい少女でした。
でも、今私たちが見て、触って、嗅いで、聞いて、味わっているものすべてが真実であることって、どうやったら裏付けできますか?私の生きるこの人生が、私のものではないとしたら?
あのころの不安を映した映画『トゥルーマンショー』
1998年に放映され、主演のジム・キャリーがゴールデングローブ賞を獲った大人気映画、『トゥルーマンショー』は、まさにその誰もが幼い頃に抱いた"あの不安"を、もう一度思い出させる映画。
世界のどこかにあるシーヘブンという島で産声をあげたトゥルーマン(ジム・キャリー)は、
美しい自然、気さくな住民、家族や親友に囲まれ、恋愛・仕事・結婚生活、誰もが経験するフツーのことを、フツーに経験してきた男でした。
でもその彼が歩んできた人生は、なんとリアリティ番組としてすべて作られたもの。当たり前に生活してきた毎日はプロデュースされたもので、島を囲む海は人工プール、道行く人から家族までがすべてエキストラ。また彼が普段触れていた調理器具や親友が持ってくるビールはプロダクトプレイスメント…
と、何もかもが番組のセットに過ぎなかったんです。
道の先にある角を右折する前、右折した先の世界は存在せず、彼が右を向いた瞬間に作り上げられるこの世界。まさに小学生の私を不眠に陥れたあの妄想そのままなんですね。
母のお腹の中にいるときから30歳まで、ありきたりなトラブルや幸福を味わいながら、当たり前に過ぎていくトゥルーマンの毎日は『トゥルーマン ショー』と名付けられ、彼の周りの設置された約5000台のカメラによりリアルタイムで全世界にオンエア。
しかもそっくりそのまま、24時間フル稼働の生放送でした。
俳優の演じるドラマではなく、ひと1人の本当の人生をまるっと覗ける超大作リアルドキュメントは、当然のごとく全世界で大ヒット。誰もがトゥルーマンを自分の息子のように、あるいは友達のように、またあるいは兄弟のように思い、ビッグスターとして愛したのでした。
///ここからはネタバレ///
未見の方のために、この物語の行く末をご紹介します。
トゥルーマンは、やがて偽物だった自分の人生に気づき、島内全ての人間(制作スタッフ・キャスト)で食い止められそうになりながらも、どうにか海を渡ります。
ようやく解放されたと思った彼が青く広がる空に手を伸ばすと、その空は、雲がペイントされたただの壁!
彼が見ていた世界はただの小さなドームの中であり、広がる空も海の向こうの国も、何もかもが偽物だったんです。
そしてこの瞬間、自分が見ていた世界や人生が、思ったよりもずーっとちっぽけだったということを、改めて実感するのでした。
普段「おはよう!そして会えない時のために、こんにちはとこんばんは!」とひょうきんな挨拶が口癖だった彼。
青空の壁から外の世界に出る最後のシーンでは、画面の向こうにいる視聴者に向けて
「会えない時のために、こんにちはとこんばんは。」
と優しく微笑み、お辞儀をしてショーは終了。ようやくこのフレーズが、有意義になったのでした。
そもそも私たちの思う"真実"って一体‥?
最後までエンターティナーとして軽快に振舞ってくれたトゥルーマン。ショーの終わりを告げた決め台詞含め、どこまでもデキた映画だったと感動したのは言うまでもありません。
でも、この話って実は他人事じゃないかも。だって、自分が現実だと思っている人生が、本当に現実だと裏付けてくれる証拠はまだ誰も持っていないのだから。
今となっては本物の自分の暮らしを疑うことなく信じているけれど、
生まれた時から偽物の家族と偽物の友人に囲まれて、偽物の暮らしをしていたとしたら、それが偽物であるということはどうして知ることができるのでしょう?
つまり、もしもこの世界に嘘しか存在しないとしたら、紛れもなくそれは、私たちにとって本物であるということなんです。
いろんな人に勧められて、ずーっとみようと思いながらとうとう今日まで先延ばしになってしまったこの映画。
私が生きているこの人生、もしかしたら私のものじゃないのかも?童心をもう一度思い出し、肌がちょっぴり若返った気のする夜でした。
こっそり追伸。
世間で言われている「ラストシーン」はこの、ショーの終わりの一言だったのですが、私が一番感動すべきだと思ったのはそのあとの1シーン。
トゥルーマンの挨拶で終わったリアリティ番組『トゥルーマンショー』の終了に、テレビ越しから多くのファンは拍手喝采。でもファンであった男性が、番組の画面が切れると同時に「次のテレビガイドは?」と、面白いチャンネルを求めてザッピングを始めるんです。そこで映画はようやくエンドロールに。
彼の人生そのものを30年も楽しんで見ていたにもかかわらず、熱が冷めるのがあまりにも早くありませんか?つまり、やっぱり他人の人生なんてそんなものだってこと。
トゥルーマンの人生がかかったリアリティショーではあったけど、どうしたってその人生は自分のものじゃない。だからどうだっていいし、自分の感情以外の真偽なんてやっぱりわからない、だからこそのトゥルーマンショーなんです。
出来の悪いテストが鞄に入っている帰り道は、親に見せるのが怖くてこのまま川で溺れて死のうかと思うけれど、結局怒られても夜は明け、明日は来ます。
自分の感情は確かに動いているけれど、他人から見たらどうってことないし、いずれ終わって、終わったら何も残らない。
私の心の中の「せっかく生まれてきたから一所懸命生きねば」の裏側にあった
「どうせ死ぬから何もしたくないっす」という熱い意志に油はたっぷりと注がれ、いまもう一度メラメラと燃え上がっているのでした。